年始のご挨拶 今年度年忌表のご案内

年始のご挨拶

善光寺門信徒の皆様へ

お世話になっております。
善光寺副住職でございます。



旧年中は、法要・行事をはじめ、さまざまなご縁を通して当寺をお支えいただき、誠にありがとうございました。


心より感謝申し上げます。


本年も、皆さま一人ひとりの歩みに寄り添い、心を静かに整える場としてのお寺の役割を大切にしてまいりたいと思っております。

日々の暮らしの中では、忙しさに追われ、立ち止まって手を合わせる時間を持つことが難しいこともあるかと思います。


だからこそ、法要や行事などといった節目は、あらためて大切な方を偲び、いのちのつながりを感じる機会となります。

本年も、皆さまが安心してお参りいただけるよう、丁寧なお勤めを心がけてまいります。


本年も変わらぬご縁を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。


年忌表についてのご案内

下記に年忌表を添付させて頂きます。

年忌法要のお勤めを希望される方は、添付させて頂きました年忌表をご覧いただき、ご連絡いただければ幸いです。

※現在、個別での年忌法要のご案内は差し控えさせていただいております。
 大変恐縮ではございますが、年忌法要をご希望の方は添付の年忌表を確認頂き、ご連絡頂きますようお願いいたします。

「どの年忌にあたるのか分からない」
「この場合はどうしたらよいか迷っている」

そのような場合も、遠慮なくお気軽にお尋ねいただけましたら幸いです。
ご家族のご事情に合わせて、ご無理のない形でお勤めいただくことが何より大切だと考えております。


本年も、皆さまとのご縁を大切にしながら、日々精進してまいります。


本年も変わらぬご縁を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

合掌

善光寺 副住職


副住職コラム⑤〜友引の日に葬儀を避けた方が良いのか〜

「友引の日に葬儀は避けた方が良いでしょうか?」

このご相談をいただくことは以前からありましたが、今年の4月以降、特に増えております。

この背景には、八事斎場の改装工事があります。
名古屋市には本来「八事斎場」と「第二火葬場」の二つの火葬場がありますが、現在は八事斎場が工事のため閉鎖中です。


そのため現在、第二火葬場に負担が集中し、火葬場全体が大変混み合っています。

これは完全に私の予想ですが、
冬場など亡くなられる方が増える時期には、一週間程度の待ちが発生するのではないかと思います。

こうした状況の中で、火葬場の都合上、「友引の日でも葬儀を行わざるを得ない」という現実があります。

こうした背景があり、「友引の日に葬儀をしてもよいのか」というご質問が、改めて多く寄せられているのだと思います。

では、本当に友引の日に葬儀をしてはいけないのでしょうか?


六曜と仏教は関係がない

まず大切なことは、六曜(大安・仏滅・友引など)は、仏教とはまったく関係がない暦注であるということです。
六曜の起源は中国にあり、日本には江戸時代以降に広まりました。



仏教の経典や教えの中には「六曜」に関する記述は一切なく、浄土真宗をはじめとする仏教各宗派の立場から見ても、六曜は信仰の根拠にはなりません。


「友引=友を引く」の誤解

「友引の日に葬儀をすると、友をあの世へ引き込んでしまう」という言い伝えがあります。
しかし、これはあくまで俗信であり、根拠のない迷信です。

友引本来の意味は「勝負が引き分ける」という暦の吉凶判断にすぎず、「友を引く」といった死に関する意味合いは後世のこじつけです。


私、副住職の考え

浄土真宗の僧侶としての立場から申しますと、葬儀は「亡き方をご縁として仏さまの教えをいただく大切な場」です。
六曜に左右される必要はなく、ご家族の都合やご縁を優先して執り行うことが大切です。

しかし、私の個人的な意見としては、どうしても六曜を気にしてしまうのは人間の性です。

例えば、結婚式を挙げるなら大安にやりたい人が多いです。
好き好んで仏滅の日に結婚式を進んで挙げる人は基本的にいません。

人間というのは、そうした迷信をどうしても気にしてしまう生き物だと思います

そして、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人はそうした迷信に流されてしまう、私たち人間の弱さを以下の言葉を残して嘆いています。

「かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ天神地祇をあがめつつト占祭祀つとめとす」
『正像末和讃』『真宗聖典』509頁

しかし、この言葉をよく読み解くと、「迷信に流されてはいけない、六曜を気にしてはいけない」とは一言も書かれていません。

そうではなく、そうした私たち人間の生まれ持った弱さを嘆いておられる言葉です。

実際に親鸞聖人は私たちの人間の弱さをよくわかっていたのではないでしょうか。

以上を踏まえて、私の結論はこうです。


「友引に葬儀をしてはいけないという仏教の教えはありません。しかし同時に、『六曜を気にしてはいけない』という教えもありません。親鸞聖人は、人が迷信を気にしてしまう弱さを受けとめてくださっています。ですから、どうしても気になる方は友引を避ければよいし、気になさらないのであれば友引に葬儀を行ってもまったく問題はありません。」


まとめ

友引の日に葬儀をしてはいけないという仏教上の理由はありません。
六曜は仏教とは関係ありません。

しかし同時に、人はどうしても迷信を気にしてしまう生き物です。
親鸞聖人もまた、その弱さをよく理解されていました。

ですから大切なのは、無理に「気にするな」と自分を押さえつけることではなく、
「どうしても気になる方は友引を避ける」
「気にされない方は友引に行っても差し支えない」

――その柔らかさで良いのだと思います。

葬儀は、六曜に左右されるものではなく、亡き方をご縁として仏さまの教えをいただく大切な場です。
迷信に振り回されすぎず、安心してご家族のご都合に合わせてご相談ください。


※もし「こんなテーマで取り上げてほしい」「この疑問について聞いてみたい」といったリクエストがありましたら、ぜひお気軽にお寄せください。
皆さまの声を参考にしながら、少しでも安心や学びにつながる記事をお届けしてまいります。


最後までお読み頂きありがとうございました。
また今後ともよろしくお願い致します。

善光寺 副住職

春の永代経法要が無事に勤まりました

お世話になっております。

善光寺副住職でございます。

先日、4月14日に永代経法要がお陰さまで無事勤まりました。

善光寺門信徒の皆さま、ご参詣いただきました皆さま、この度は誠にありがとうございました。


今年も皆様のおかげでこの大切な法要を無事務めることができました。

皆様に心よりお礼申し上げます。

今年の永代経法要も昨年に引き続き、住職と私副住職の二人でご法話をさせて頂きました。


私は親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』の最後に引用された、道綽(どうしゃく)(562~645)が著した『安楽集』の言葉


「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え。」

このお言葉をテーマにお話しさせて頂きました。


私達が現在、浄土真宗のみ教えを頂いているのは自分の父母、祖父祖父母の姿を受け継いできたからだと思います。


前に生まれた方々に導かれて今私達は浄土真宗という800年以上続いているこの教えに出会えることができました。


そして、後に生まれた者としていつまでも父母、祖父母から受け継いできたものを心に残し大切にしていくべきだと思います。

そして、この浄土真宗の御教えを私達の代で終わらせるのではなく、次世代へと繋いで行かなくてはならない、姿や形や行動で後の世代を導いて行かなくてはならないというお話をしました。

私自身、善光寺副住職としてこれからも日々の法務を通して、門信徒の皆様と共にこの尊いみ教えを味わい、次の世代へと確かに伝えていけるよう精進してまいります。



お勤めやご縁の中で、先人方のご恩を忘れることなく、次の世代にしっかりとみ教えを手渡していく責任を改めて感じております。

現代は、価値観の多様化や暮らしの変化が著しい時代ではありますが、そうした時代だからこそ、揺るがぬ拠り所としての浄土真宗のみ教えが一層大切になってくると感じております。

どうか今後とも、皆様と共にこのご縁を大切にし、阿弥陀如来の本願に照らされた日々を歩んでまいりたいと思っております。

最後になりますが、永代経法要のご参詣、ご協力をいただきました全ての皆様に、重ねて感謝申し上げます。

合掌

善光寺副住職

報恩講にお参り頂きました皆様へ

皆様、大変お世話になっております。
善光寺副住職でございます😊

先日 11月14日(木)に善光寺にて報恩講のお勤めをさせて頂きました。

※報恩講のご案内の記事は以下よりご覧ください


いつもご協力して頂いている皆様のおかげで無事に今年も報恩講を執り行う事ができました。

ご参列いただきました皆様におかれましては心よりお礼申し上げます。

今年も多くの方にご参拝いただき、ありがたいご縁となりました。

今年は、三重県より山田智敬先生にご法話をいただきました。
(毎年ご法話頂いている山田 敎尚先生のご子息様です)

先生は今回、初めて善光寺にお越し頂きました。

先生のやさしく、そして温かな語り口でもって、阿弥陀さまのお話をお聞かせいただきました。

ご法話のテーマは

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」

正信偈の冒頭であり、そして「正信偈」全体を表すと言っても過言ではないこの二句についてありがたく、そして大変わかりやすくお話を頂きました。

※完全に余談ですが、山田先生は私副住職と同世代の方です。
同世代の布教師の方から直接ご法話を賜り、大変刺激になりました。
私も先生のように、皆様へありがたい法話ができるように、これからも日々精進して参ります。

本当に有り難い時間でした。

1年で最も大切な法要が皆さまのおかげで、このような形でお勤めできました。

改めまして、皆さまありがとうございました。

今後とも皆様、善光寺をよろしくお願いいたします🙇

善光寺 副住職

副住職コラム③〜浄土真宗の御利益とは何か〜

浄土真宗に触れると人生がどう変わっていくのか 
浄土真宗に興味のある方は最後までお読み頂けると幸いです。

皆様お世話になっております。
善光寺副住職でございます。

本日は久しぶりのコラム更新となります。

前回のコラムはこちらからご覧ください。

今回はタイトルにもある「浄土真宗の御利益」というテーマについてお話しさせて頂きたいと思います。

皆様、突然ですが御利益というとどのようなイメージを持つでしょうか?

まず、一般的な「御利益」とは
・商売繁盛
・良縁成就
・学業成就
・開運厄除
などが一般的だと思います。

「もっとお金持ちになりたい」

「素敵な恋人が欲しい」

「志望校に合格したい」

「周囲に認められたい」

私達が日々の生活を送る中で、誰もが願う幸せのかたちとして、これらを求めることは自然なことかもしれません。

しかし、残念ながら浄土真宗では、このような御利益はありません。

浄土真宗の教えに触れお念仏申す日々を歩んだからといって、急に人生が好転するわけではありません。
厳しい言い方になるかもしれませんが、浄土真宗の教えに触れても目の前の現実は何も変わりません。

では改めて、浄土真宗の御利益とは一体何でしょうか?

それは一言でいうと「死ぬことの意味が全く変わる」という事に尽きると私は思います。

一昔前、ビジネス書界隈でこのような本が大変流行しました。

この本は私も読んだことがあり、内容自体は心に響く部分もありました。
良い本だと思います。

この本が大ヒットした影響で、一時期ビジネス書界隈では「死ぬこと以外かすり傷」という言葉がとても流行りました。

しかし、私自身は「死ぬこと以外かすり傷」という言葉には違和感を覚えました。

それはなぜか?

それは人はいつか必ず死ぬからです

「死ぬこと以外はかすり傷」というこの言葉の裏には「死ぬ事は致命傷」という意味もあると感じました。

この言葉の背景には「死んだら終わり」「死んだら何もない」という価値観があるのではないかと思います。
この本の影響で「死ぬ事以外はかすり傷」という言葉が若い世代で流行っていた事を考えると「死んだら何もない」という価値観が多くの人に浸透しているのではないかと思いました。

「死んだら何もない」という価値観が背景にあるのか、一般的にはこの世で命を終えることを死して去ると書いて「死去」するという言葉が使われていると思います。

しかし、浄土真宗では命終える事を死去するとは言いません。

では、浄土真宗で命終えることをなんというでしょうか?

それは仏様の世界に往き生まれると書いて「往生」すると言います。

私達は命終えたらそれで終わりではございません。


この世で命を終えるという事は同時に、阿弥陀如来様に導かれ仏様として新たな命を頂き生まれます。

この世で命を終えるという事は仏様の世界で新たな命を頂くという事です。

「死去」という価値観から「往生」という価値観に変わっていく事。

この変化が浄土真宗の最大の御利益だと私は思います。

なぜなら、死ぬ事は誰もが避けては通れない、いつか必ず経験する事だからです。

そして、この避けられない「死」という現実に対する見方が変わるという事は大きな御利益と言えるのではないでしょうか?

  • この世で命を尽きて終わりではない。仏様の世界でまた新たな命が始まる。
  • 大切な人とこの世で別れてもまた必ず仏様の世界で再会できる。

冒頭にもお伝えした通り、
この浄土真宗の教えに触れても目の前の現実自体は何も変わりません。

しかし、厳しい現実を生き抜く上での生き方は大きく変わるのではないでしょうか?

「死んだら終わり」と考えている人と「命終えたら必ず仏の世界に生まれ新たな命を頂く」と考えている人、両者の生き方には大きな差があると私は思います。

このように、浄土真宗の御利益は目の前の現実を大きく変えるものではありません。
しかし、人生で避けることのできない「死」という現実に対する見方を変え、私たちの生き方の根底を支える大きな力になると私は思います。

最後に、お読みいただいた皆様へ。

阿弥陀如来様は、煩悩にまみれた私たち全員を必ず救おうといつも働きかけてくださっておられます。

この浄土真宗の教えに触れ、興味を持って頂いた方々におかれましては阿弥陀如来様への感謝の気持ちを込めて「南無阿弥陀仏」とお念仏申して頂きたいと思います。

これからもお念仏申し心豊かな生活を共に歩んで参りましょう。

最後までお読み頂きありがとうございました。

善光寺 副住職

副住職コラム②現代における葬儀や法要の意義〜なぜ私たちは葬儀を行うのか〜

 葬儀や法事など仏事を行うか迷われている方は是非最後までお読みください

 

 私が善光寺で副住職としてお勤めをさせて頂くようになり今年で5年目になります。


この5年間の中で多くの方から仏事に関する相談を受けてまいりました。


そして、その中でここ数年で最も多い質問が冒頭に挙げた
「お葬式や法事ってやらないといけないんですか?」という質問です。

 

 その質問の背景には、合理性を追求する近年の社会の流れがあるのかもしれません。


お通夜や初七日法要を省略して葬儀だけを行う「一日葬」や
葬儀さえも省略した「直葬」も近年多くなってきております。

 そして葬儀不要論を提唱する宗教学者の島田 裕巳さんが2010年にこちらの本を出版し、多くの反響がありました。

葬式は、要らない (幻冬舎新書 し 5-3) 新書 – 2010/1/28

島田 裕巳 (著)

こちらの本では現代の葬儀のあり方を批判し、簡素化するべきだという主張がされています。

また、こちらの本にも書かれているとおり、葬儀を行う歴史的根拠はありません。

 この記事を読んでいる皆様は驚かれるかもしれませんが、
実際に浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は「自分が命を終えたら遺体を鴨川に流せ」と弟子達に伝えていたそうです。

 

親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし。

『改邪鈔(がいじゃしょう)』

 

 このように、葬儀を行う宗教的な根拠は全くありません。
現代においては、合理性を重視し遺体の処理だけに着目するなら「直葬」という形が最も理にかなっているのかもしれません。

 では、以上を理由に冒頭の質問に対して「葬儀や法事など仏事をやらなくても全く問題ありません」と答えるのが一番良い答えでしょうか?

 

 私は全くそう思いません。

 

なぜなら、葬儀や法事というのは残された人達のために行うべきものだからです。

例えば、先ほどの親鸞聖人の例を元に考えてみましょう。

親鸞聖人のご遺体は本当に鴨川に流されたのでしょうか?

親鸞聖人との別れに悲しんでいる弟子たちがそのような事するわけがありません。

親鸞聖人の葬儀は行われ、ご遺体は火葬されて、遺骨は京都の大谷の地に埋葬され、ご遺族によって大切に護持されることとなりました。

 葬儀や法要というのは私たちが大切な人との別れを受け入れ、悲しみを乗り越えていく大切な儀式です。
 そして、大切な人との別離の悲しみを通して、自分達もいつか同じように命を終えていく身である事を改めて受け入れること。
 また、命を終えたら私たちはどうなるのか、仏教の教えに触れる現代においては重要な機会です。

 つまり、大切なことは、葬儀や法要というのは残された私たちのために行うものだということです。

 「お葬式や法事ってやらないといけないんですか?」
冒頭の質問に対して、私は今までこのように答えてきました。

「やらなければいけないものではありません。合理性だけを追求するなら葬儀や法事は不要です。ただ合理性だけを追求することが本当に幸せでしょうか?葬儀や法要は残された私たちのために行うものです。後からやらずに後悔するよりも、規模を小さくするなど無理なくできる範囲でやられた方が良いと思います。」

 社会は合理性を追求していますが、それが必ずしも私たちを幸せにするわけではありません。大切な人との別れにどう向き合うか、それぞれの心で感じ、考えていくべきです。

 私も僧侶として、社会の流行に流されず、常に考えながら本当に大切なことを守り続ける僧侶でありたいものです。

今後ともよろしくお願い致します。

善光寺 副住職

副住職ミニ法話②〜理不尽な人間関係に悩んでいる方へ〜お釈迦様からのメッセージ

一切皆苦という教えから学ぶべき私達の生き方

 

お世話になっております。善光寺副住職でございます。

世間ではゴールデンウィークですね。この時期は交通量の増加により、交通事故が多発しております。この動画にあるように、悲しい死亡事故が全国各地で起きています。

 

 

私も「家に帰るまでが遠足」という言葉を胸に、外出する際は最後まで安全運転を心がけていきたいものです。皆様もどうか渋滞に巻き込まれても安全運転を心がけて参りましょう。

 さて、本日は2回目のミニ法話となります。前回のミニ法話はこちらからご覧ください。

 

 私は日々僧侶として活動している中で、皆様からよく人生相談を頂きます。
 皆様それぞれに様々な悩みがあると思います。
 しかし、多くの悩みに共通する悩みがあると思います。
 

 

 それは間違えなく「人間関係」に関わるものです。


 

 例えば、学生の方の場合、悩みの内容はクラスや部活動の人間関係に基づくものがほとんどです。
 社会人の方の場合、上司や同僚、取引先の方との人間関係などがほぼ全てです。

 

 そして人間関係の悩みの中でも多いのが、立場が上の人との関係性です。


 

 誰しもが、目上の人から理不尽な事を言われ、拳を握り締め我慢した経験があると思います。
 理不尽な言葉を飲み込み我慢するというのは想像を絶するストレスだと思います。
 世の中は理不尽であるとはいえ、とても悔しい気持ちだったと思います

 

 

 このような理不尽な目にあった時、一体どうすれば良いのでしょうか。

 

 仏教的に考えてみましょう。
 

 

 まず、理不尽な相手に言い返す事は推奨できません。
 お釈迦様は次のような言葉を残されています。

 

 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

中村 元. ブッダの 真理のことば 感興のことば (Japanese Edition) (Kindle の位置No.76-79). Kindle 版

 

 この言葉を解説すると、「この世において怨みは怨みによって静まるのではなく、怨みを忘れることによってのみ静まる」という意味です。

 

 もし、相手の理不尽さに対し怒りをぶつければ、その怒りは相手に伝わります。理不尽な相手に対して怒りを手放すことが一番の解決策になるとお釈迦様は仰っているわけです。

 

 

 しかし、これは頭ではわかっていても実践するのは非常に困難なことだと思います。
 その上で役に立つ教えが「一切皆苦」という言葉です。

 

 

 この一切皆苦という言葉は「この世の全ての事は何一つ思い通りになる事はない」という意味でございます。
  当たり前のように聞こえますが、全て自分の思うがままにできることなど何一つございません。
 例えば、宝くじは買っても中々当選しません。急いで運転している時に限って渋滞に巻き込まれる事もあります。
 

 

 この世の中には自分の思い通りなることなど何一つありません。

 

 

 しかし、この言葉をもっと深く考えてみましょう。
 物事に対して思い通りにならないという不満足な心を持っているのは誰でしょうか?
 

 

 それは自分自身です。
 物事に期待して、その期待が叶わないと不満足な心を持ってしまうのが人間です。
 

 

 もしかすると宝くじが当たるかもしれない、渋滞に巻き込まれずに目的地に早く着くかもしれない。
 思い通りにならないことに対して期待する心が不満足な心の原因でしょう。
 

 

 つまり、一切皆苦という言葉には
思い通りにならない世の中に対して、自分の思い通りにできると期待する思い上がった自分自身の心が苦しみを生んでいる」と捉える事ができます。
 

 

 期待すればするほど、その期待が裏切られた時には苦しむことになります。

  

 この世の全ての事は思い通りになりません。
 

 「一切皆苦」という言葉を胸に、理不尽な相手に期待することはやめましょう。
 相手は変えられません。
 

 むしろ、思い通りにならない相手から思い通りにならない理不尽さが降りかかってくるのも、一切皆苦という教えで考えれば仕方ないことだと思えるでしょう。

 

 私たちが生きていくこの世界は理不尽なことで溢れています。
 生きていく上で、理不尽な人間関係からは逃れられません。

 

 

 よほど理不尽なことでない限り、深く考えずにさらりと流しましょう。
 理不尽なことに対して、深く考えて良い事は何一つないと思います。

 

 「一切皆苦」という言葉を胸に、物事に期待する自分自身の思い上がった心をなるべく抑えて、思い通りにならないこの世界を、気を楽にして生きて参りましょう。

 善光寺 副住職

 

 おまけ① 一切皆苦を扱った動画

皆様にわかりやすく一切皆苦を伝えている動画を探しましたが見つかりませんでした。
僧侶の方が説明している動画はどれも一般の方には難しいと思いました。
しかし、仏教系お笑い芸人さんのみほとけさんが「一切皆苦」をネタにした動画を挙げていました。一切皆苦に興味を持った方にはオススメの動画です。

 

この動画を見て頂くと、「世の中は思い通りにならない事で溢れている」事が面白い要素満載でわかると思います。

 

 

 おまけ② 記事で使った本

 記事の途中でお釈迦様の言葉をこちらの本から引用しました。

 非常に難しい本になりますので、一般の方にはオススメできません。
 しかし、辞書のように使う分には大変便利ですので、一般の家庭にも一冊はあっても良いのかなと思いました。

また次回の投稿もよろしくお願いします!

春の永代教の案内② 〜善光寺の桜が満開です〜

来週4/14 春の永代教に向けて

皆様お世話になっております。
浄土真宗本願寺派 善光寺副住職でございます。

現在、善光寺の桜が満開です。

 毎年、善光寺ではこのように桜が咲きます。来週の4/14の永代教まで、この綺麗な桜が少しでも残って欲しいと思うばかりです。
 満開になった桜を見て毎年思うことがございます。
 それは人間の命の無常さについてです。

 桜がなぜ綺麗だと思うか。なぜ造花よりも美しいと思うのか。
それは必ず散っていくからです。
いつか必ず終わりがくる。だからこそ満開の桜に多くの人が心をうたれるのでしょう。

 人間の命も桜と同じように、必ずいつか終わりが来ます。
そうした儚い命だからこそ、人生というのは尊いものなんだと思います。
いつか終わりがくる人生だからこそ、今日という日を大切に生きていきたいと願うばかりです。

さて、本日は表題の件、来週の4/14の永代教について再度お知らせ致します。
前回の案内はこちらからご覧ください。


 お勤め終了後、法話もさせて頂きます。
住職、私副住職共に準備を進めております。
お時間のある方は是非ご参拝頂けると幸いです。

皆様のご参拝を心よりお待ちしております。

善光寺 副住職

副住職ミニ法話① 蓮如上人から私達へのメッセージ〜仏法を学ぶ上で大切なこと〜

仏法を日々の生活に落とし込めているかどうか

 

 皆様お世話になっております。浄土真宗本願寺派善光寺副住職でございます。

 本日は善光寺門信徒の皆様、並びに一般の方に是非お伝えしたいお話がございます。
このお話は私たち僧侶はもちろん、一般の皆様におかれても浄土真宗を学ぶ上で大切な心構えになるはずです。

 浄土真宗第8代宗主、蓮如上人の言行録の『蓮如上人御一代記聞書』というものがあります。
 

 蓮如上人は浄土真宗の教えを広める事に大きく貢献されました。浄土真宗の教えを当時の人でもわかるようにできるだけわかりやすくまとめた「御文章」と呼ばれるお手紙を多く書かれました。
 その結果、浄土真宗の教えは多くの人に広がっていきました。
 その蓮如上人の記録が『蓮如上人御一代記聞書』です。

 

 その『蓮如上人御一代記聞書』に「聖教読みの聖教読まずあり」とあります。

 これはどういう意味か。それは、仏法を喜べないならお聖教をただ知識として読んでも意味がないという事です。

 つまり、仏法を知識として知っていても日々の生活に反映されていなければお聖教の真の意味を理解していることにならないという事です。
 

 例えば、仏法を知識として学んでいても、常にイライラしている人、暴言などで周囲を傷つける人、こういった人たちはお聖教を読んでない事に等しいと蓮如上人は仰ってます。

 その一方、「聖教読まずの聖教読み」という言葉も書かれております。
 つまりお聖教を読めなくても、仏法を聞いて喜ぶ事ができるものは、お聖教の真意を読みとっているといえるのです。
 自分自身の人生に仏法を落とし込めているかという事が問われているわけです。
 

 

 この具体例としてとても有名な話があります。
 江戸時代に讃岐(香川県)に庄松さんという方がいらっしゃいました。
 庄松さんは読み書きができなかったようです。
 それでも仏法を聴聞される日々を送られました。
 そんなある日、ある意地悪な人に大勢の前で「このお経をよんでみよ」と大無量寿経を手渡されました。
 文字を読むことのできない庄松さんは何と答えたか。
 なんと「庄松をたすける、庄松をたすける、と書いてある」と答えたそうです。
 お聖教を読むことができない、それでも仏法を喜び、自らの救いの確かさを喜んでおられました。
 

 この庄松さんの姿こそ、蓮如上人が仰られる「聖教読まずの聖教読み」です。

 

 この蓮如上人のメッセージは、浄土真宗の教えを学ぶ上で心に留めておくべきことだと思います。つまり重要なのは知識の多い少ないではございません。
 

 大切な事は、庄松さんのように仏法を自分自身の人生に落とし込む事ができているかという事です。それこそが仏道を歩むという事です。

 

 この姿勢は浄土真宗を学ぶ上で最も大切だと思います。正直、最近のSNSを見ていると、僧侶の中でも知識を振りかざし他人を攻撃する人が一定数います。仏法を巡って論争し、他者を攻撃する。それは、仏道を歩む上で本来のあるべき姿ではございません。
 

 たくさん知識があるということが大切ではありません。
 心に仏法が生きているかという事が大切です。


 

 私自身も日々仏法を学ぶ上で、気をつけなくてはならないと思いました。
知識を振りかざし偉そうな僧侶になるのではなく、門信徒の皆様と共に仏法を喜べる僧侶になりたいと改めて思う事です。

 そして皆様と共に、仏法を通して心豊かな人間に近づいていきたいと思う次第でございます。

 

 私たちが心豊かな人間に近づけるよう、庄松さんのように仏法を人生に落とし込む事を心がけ、これからも仏法を学んで参りましょう。
 

 下のイラストは左が庄松さんのような「聖教読まずの聖教読み」、右が「聖教読みの聖教読まず」の対比を表しています。
 皆様、仏法を学ぶときは常にこのイラストを見て、日々の生活に仏法を落とし込む事を心がけてください

 ↓写真は善光寺本堂にございます蓮如上人の像です。