副住職コラム②現代における葬儀や法要の意義〜なぜ私たちは葬儀を行うのか〜

 葬儀や法事など仏事を行うか迷われている方は是非最後までお読みください

 

 私が善光寺で副住職としてお勤めをさせて頂くようになり今年で5年目になります。


この5年間の中で多くの方から仏事に関する相談を受けてまいりました。


そして、その中でここ数年で最も多い質問が冒頭に挙げた
「お葬式や法事ってやらないといけないんですか?」という質問です。

 

 その質問の背景には、合理性を追求する近年の社会の流れがあるのかもしれません。


お通夜や初七日法要を省略して葬儀だけを行う「一日葬」や
葬儀さえも省略した「直葬」も近年多くなってきております。

 そして葬儀不要論を提唱する宗教学者の島田 裕巳さんが2010年にこちらの本を出版し、多くの反響がありました。

葬式は、要らない (幻冬舎新書 し 5-3) 新書 – 2010/1/28

島田 裕巳 (著)

こちらの本では現代の葬儀のあり方を批判し、簡素化するべきだという主張がされています。

また、こちらの本にも書かれているとおり、葬儀を行う歴史的根拠はありません。

 この記事を読んでいる皆様は驚かれるかもしれませんが、
実際に浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は「自分が命を終えたら遺体を鴨川に流せ」と弟子達に伝えていたそうです。

 

親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし。

『改邪鈔(がいじゃしょう)』

 

 このように、葬儀を行う宗教的な根拠は全くありません。
現代においては、合理性を重視し遺体の処理だけに着目するなら「直葬」という形が最も理にかなっているのかもしれません。

 では、以上を理由に冒頭の質問に対して「葬儀や法事など仏事をやらなくても全く問題ありません」と答えるのが一番良い答えでしょうか?

 

 私は全くそう思いません。

 

なぜなら、葬儀や法事というのは残された人達のために行うべきものだからです。

例えば、先ほどの親鸞聖人の例を元に考えてみましょう。

親鸞聖人のご遺体は本当に鴨川に流されたのでしょうか?

親鸞聖人との別れに悲しんでいる弟子たちがそのような事するわけがありません。

親鸞聖人の葬儀は行われ、ご遺体は火葬されて、遺骨は京都の大谷の地に埋葬され、ご遺族によって大切に護持されることとなりました。

 葬儀や法要というのは私たちが大切な人との別れを受け入れ、悲しみを乗り越えていく大切な儀式です。
 そして、大切な人との別離の悲しみを通して、自分達もいつか同じように命を終えていく身である事を改めて受け入れること。
 また、命を終えたら私たちはどうなるのか、仏教の教えに触れる現代においては重要な機会です。

 つまり、大切なことは、葬儀や法要というのは残された私たちのために行うものだということです。

 「お葬式や法事ってやらないといけないんですか?」
冒頭の質問に対して、私は今までこのように答えてきました。

「やらなければいけないものではありません。合理性だけを追求するなら葬儀や法事は不要です。ただ合理性だけを追求することが本当に幸せでしょうか?葬儀や法要は残された私たちのために行うものです。後からやらずに後悔するよりも、規模を小さくするなど無理なくできる範囲でやられた方が良いと思います。」

 社会は合理性を追求していますが、それが必ずしも私たちを幸せにするわけではありません。大切な人との別れにどう向き合うか、それぞれの心で感じ、考えていくべきです。

 私も僧侶として、社会の流行に流されず、常に考えながら本当に大切なことを守り続ける僧侶でありたいものです。

今後ともよろしくお願い致します。

善光寺 副住職