副住職コラム⑤〜友引の日に葬儀を避けた方が良いのか〜

「友引の日に葬儀は避けた方が良いでしょうか?」

このご相談をいただくことは以前からありましたが、今年の4月以降、特に増えております。

この背景には、八事斎場の改装工事があります。
名古屋市には本来「八事斎場」と「第二火葬場」の二つの火葬場がありますが、現在は八事斎場が工事のため閉鎖中です。


そのため現在、第二火葬場に負担が集中し、火葬場全体が大変混み合っています。

これは完全に私の予想ですが、
冬場など亡くなられる方が増える時期には、一週間程度の待ちが発生するのではないかと思います。

こうした状況の中で、火葬場の都合上、「友引の日でも葬儀を行わざるを得ない」という現実があります。

こうした背景があり、「友引の日に葬儀をしてもよいのか」というご質問が、改めて多く寄せられているのだと思います。

では、本当に友引の日に葬儀をしてはいけないのでしょうか?


六曜と仏教は関係がない

まず大切なことは、六曜(大安・仏滅・友引など)は、仏教とはまったく関係がない暦注であるということです。
六曜の起源は中国にあり、日本には江戸時代以降に広まりました。



仏教の経典や教えの中には「六曜」に関する記述は一切なく、浄土真宗をはじめとする仏教各宗派の立場から見ても、六曜は信仰の根拠にはなりません。


「友引=友を引く」の誤解

「友引の日に葬儀をすると、友をあの世へ引き込んでしまう」という言い伝えがあります。
しかし、これはあくまで俗信であり、根拠のない迷信です。

友引本来の意味は「勝負が引き分ける」という暦の吉凶判断にすぎず、「友を引く」といった死に関する意味合いは後世のこじつけです。


私、副住職の考え

浄土真宗の僧侶としての立場から申しますと、葬儀は「亡き方をご縁として仏さまの教えをいただく大切な場」です。
六曜に左右される必要はなく、ご家族の都合やご縁を優先して執り行うことが大切です。

しかし、私の個人的な意見としては、どうしても六曜を気にしてしまうのは人間の性です。

例えば、結婚式を挙げるなら大安にやりたい人が多いです。
好き好んで仏滅の日に結婚式を進んで挙げる人は基本的にいません。

人間というのは、そうした迷信をどうしても気にしてしまう生き物だと思います

そして、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人はそうした迷信に流されてしまう、私たち人間の弱さを以下の言葉を残して嘆いています。

「かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ天神地祇をあがめつつト占祭祀つとめとす」
『正像末和讃』『真宗聖典』509頁

しかし、この言葉をよく読み解くと、「迷信に流されてはいけない、六曜を気にしてはいけない」とは一言も書かれていません。

そうではなく、そうした私たち人間の生まれ持った弱さを嘆いておられる言葉です。

実際に親鸞聖人は私たちの人間の弱さをよくわかっていたのではないでしょうか。

以上を踏まえて、私の結論はこうです。


「友引に葬儀をしてはいけないという仏教の教えはありません。しかし同時に、『六曜を気にしてはいけない』という教えもありません。親鸞聖人は、人が迷信を気にしてしまう弱さを受けとめてくださっています。ですから、どうしても気になる方は友引を避ければよいし、気になさらないのであれば友引に葬儀を行ってもまったく問題はありません。」


まとめ

友引の日に葬儀をしてはいけないという仏教上の理由はありません。
六曜は仏教とは関係ありません。

しかし同時に、人はどうしても迷信を気にしてしまう生き物です。
親鸞聖人もまた、その弱さをよく理解されていました。

ですから大切なのは、無理に「気にするな」と自分を押さえつけることではなく、
「どうしても気になる方は友引を避ける」
「気にされない方は友引に行っても差し支えない」

――その柔らかさで良いのだと思います。

葬儀は、六曜に左右されるものではなく、亡き方をご縁として仏さまの教えをいただく大切な場です。
迷信に振り回されすぎず、安心してご家族のご都合に合わせてご相談ください。


※もし「こんなテーマで取り上げてほしい」「この疑問について聞いてみたい」といったリクエストがありましたら、ぜひお気軽にお寄せください。
皆さまの声を参考にしながら、少しでも安心や学びにつながる記事をお届けしてまいります。


最後までお読み頂きありがとうございました。
また今後ともよろしくお願い致します。

善光寺 副住職

【御礼】2025年度盂蘭盆会(お盆の法要)が無事満堂にて勤まりました

お世話になっております。
善光寺副住職でございます。

暑い日が続いておりますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

先日、8月12日 8月13日に善光寺本堂にて盂蘭盆会の法要が門信徒の皆様のお力添えによって無事に勤まりました。

ご参拝頂きました門信徒の皆様におかれましては心より御礼申し上げます。


本年のお盆法要は、酷暑の中にもかかわらず、例年を上回るほどのご参列を賜りました。



今年も多くの皆さまと一緒に、ご先祖さまを偲び、お念仏をお称えできましたこと、心より感謝申し上げます。
暑い中にもかかわらずお参りくださった門信徒の皆様に、住職をはじめ寺内一同、感謝の思いでいっぱいです。

本年は本堂が満員となり、皆さまには大変暑い思いをさせてしまったことかと思います。
来年以降は、大型扇風機の導入や法要を二部制にするなどの工夫をしながら、少しでも皆様が快適にお参りいただけますよう準備してまいります。

法要のひとときは、ご先祖さまや大切な方を想いながら、皆さまと心を寄せ合う時間となりました。阿弥陀さまのお慈悲のもと、つながりを感じられる場となったことが何よりの喜びです。

これからも、善光寺が皆さまにとって安心してお参りいただけるお寺でありたいと願っております。

皆様におかれましてはどうぞこれからもお気軽にお立ち寄りいただき、お念仏のご縁を共にあたためていきましょう。

まだまだ暑さが続きます。どうぞお体を大切にお過ごしください。

合掌

善光寺副住職

【ご報告】善光寺合葬墓建立のお知らせ

〜「倶会一処」の教えとともに〜

このたび、善光寺では新たに「合葬墓(ごうそうぼ)」を建立いたしました。


現代社会においては、少子化やライフスタイルの多様化により、
「お墓を継ぐ人がいない」
「子どもに負担をかけたくない」
「一人で亡くなったとき、納骨先が心配だ」
このような悩みを抱える方が増えています。

私たちは、そうした門信徒の皆様のお声にお応えすべく、「倶会一処(くえいっしょ)」の教えに基づいた合同埋葬の形を整えることといたしました。


■「倶会一処」とは?

浄土真宗では『仏説阿弥陀経』という経典を大切な経典の一つと考えております。
その経典に「倶会一処」という教えがあります。



「倶会一処」とは――
私たち人間が命を終えた時、阿弥陀如来様のはたらきによって、浄土に生まれさせて頂き、お浄土で必ず亡き人とお互い仏となって再び会うことができる、という教えです。

それは、人間としての死が「別れ」で終わるのではなく、仏として出遇い直す「つながり」の場であるという、深いまなざしでもあります。

その教えに基づき、ご遺骨を一つの場にお納めし、ともに仏縁を結ぶ合葬墓を建立いたしました。


■このような方に

合葬墓は以下のような方を対象としています。

  • 単身の方や跡継ぎのいない方
  • 個人墓地・納骨堂をお持ちでない方(あるいは今後持つ予定のない方)
  • 分骨を希望される方
  • ご家族やご親族との事情で個別のお墓に入ることが難しい方

いずれの場合も、善光寺の門信徒としてご縁を結んでいただける方に限らせていただきます。


■費用について

  • 納骨費用:おひとり(一体)につき10万円
  • その他の費用は一切不要です。

ご遺骨の納骨にあたっては、永代経をあわせて承っております。


■最後に

お墓のあり方は、時代とともに変化していきます。
しかし、「大切な人を偲ぶ場所」「仏さまとのご縁を結ぶ場」という本質は、変わりません。

合葬墓は、おひとりおひとりのいのちが大切にされ、仏さまの慈悲のなかで穏やかに迎えられるための新しいかたちです。
不安なこと、わからないことがあれば、どうぞ遠慮なくご相談ください。

皆さまとのご縁を、心よりお待ちしております。

合掌
善光寺

2025年度 盂蘭盆会(お盆の法要)のご案内

お世話になっております。
善光寺副住職でございます。


本日は表題のお盆の法要につきましてご連絡させて頂きます。

今年も例年通り、8月12日、8月13日の15時より善光寺本堂にてお盆の法要を執り行います。

以下の行事の詳細の画像をご覧ください。

法要に参拝して頂ける皆様に2点お願い申し上げます。

①ふりがなをつけて頂くこと
懇志を納めて頂いた場合、故人様の法名、施主様のお名前を法要中にお読みさせて頂きます。
そのため故人様の法名、施主様のお名前に必ずふりがなをつけて頂きますようお願い申し上げます。

②駐車場につきまして
お盆期間中は大変混雑する事が予想されます。
そのためお盆期間中にお車で参拝して頂ける方におかれましては可能な限り第二駐車場をご利用頂きますようお願い申し上げます。
第二駐車場の場所はホームページからご確認頂けます。お時間ある時にご確認いただけましたら幸いです。駐車場の写真も載せておきますのでご確認お願い申しあげます。



これから私達もお盆の法要に向けて全力で準備をして参ります。

今年のお盆も皆様にお会いできる事を楽しみにしております。

皆様の来寺を心よりお待ちしております。

善光寺 副住職

副住職コラム④ 報われないとき、そばにいる仏さま ― 公正世界仮説の現代と仏の慈悲 ―

皆様、お世話になっております。
善光寺副住職でございます。

本日は久しぶりにコラムを書きました。

前回のコラムはこちらからご覧ください。

本日のコラムでは、
心が折れそうなとき、そばにいてくれる存在がいる。

というテーマでお話しさせていただきます。

私は職業柄、学生の方や社会人の方から、さまざまなご相談をいただく機会があります。

そうした中で、多くの方に共通して見られる悩み事が、
厳しい競争社会の中で抱える「強い孤独感」です。

たとえば、
学生であれば受験勉強や部活動、就職活動。
社会人の方でであれば仕事の成績や職場の人間関係。
皆さん、それぞれの立場で大きなプレッシャーの中、懸命に日々を過ごされています。

時には努力が報われて結果を出して、周囲から賞賛されることもあるでしょう。


しかし――本当に苦しいのは、「努力が報われなかったとき」です。

現代社会はとても厳しいものです。
多くの場面で、「結果」だけが評価される風潮があります。
その過程でどれだけ努力を重ねても、うまくいかなければ「何も努力をしていない人」のように扱われてしまう――そんなもどかしい経験をされた方も多いのではないでしょうか。


「公正世界仮説」という概念

人は誰しも、心のどこかでこう信じています。

「この世界は、公正であるべきだ」
「努力した人は必ず報われるし、努力を怠る人が淘汰されるのは当たり前だ」

このような考えを、社会心理学では「公正世界仮説(Just World Hypothesis)」と呼ばれています。

この概念は、日本だけでなく世界中で広く根付いています。


たとえば、世界中の国の映画やドラマ、アニメなどの多くは基本的に「最後は正義が悪に勝つ」という構成に基づいて作られています。
私自身、「僕のヒーローアカデミア」や「ワンピース」など少年マンガが好きですが、まさに公正世界仮説を基に作られています。

「努力は報われる」
こうした公正世界仮説の概念は、人々に希望を与えてくれるものであり、本来はとても前向きな価値観です。

しかし、この概念には危険な側面があります。

それは、成果が出せない人、不遇な扱いを受けている人、そして本来被害者の立場にあるような方に対して、本人に全て責任があると考えにいうような考えに繋がるからです。


公正世界仮説を強く信じると行き過ぎた自己責任論に繋がってしまいます

これは非常に危険な事です。


「不幸な人は本人に責任がある」という思考

公正世界仮説が強く心に根付いていると、私たちは知らず知らずのうちに、こう考えてしまいます。

  • 学校でいじめられるのは、その子にも原因があるんじゃないか?
  • ちゃんと努力していれば、貧乏になんてならなかったんじゃないか?
  • 犯罪の被害にあうのは、自己管理が甘かったからじゃないか?

なぜこのような意見が出てくるのでしょうか?

それは社会にとって、「善良な人が不幸な目にあう」という現実は、受け入れがたい矛盾だからです。

その矛盾から目を背けるために、
「その人にも落ち度があったはずだ」と、不幸の原因をその人の中に探そうとします。


公正世界仮説が、助けを必要とする人を追い詰める

このように、公正世界仮説の負の側面は、
本来、最も助けを必要としている――
つらくて、苦しくて、もう限界だと感じている人を、
さらに追い詰めてしまうという、非常に恐ろしい働きを持っています。

「あなたにも原因があったんじゃないの?」
「もっと気をつけるべきだったんじゃない?」
「努力が足りなかったんじゃない?」

そんな言葉が、意図せず口をついて出てしまう。
現にインターネットの匿名掲示板などではこのような書き込みが多いと思います。

これが公正世界仮説の恐ろしい側面です。


自分で自分を責め続けてしまう人へ

そして最も深刻なのは、
この“責めるまなざし”が、他人に向くだけでなく、自分自身を追い詰めることがあるということです。

  • 志望校に合格できなかったのは、自分の勉強量が足りないから。
  • 誰にも認められないのは、自分に価値がないから。
  • うまくいかないのは、全部自分が悪いから――。

うまく成果が出せない時に自分自身の存在を否定するような考えに繋がってしまうのです。

私事になりますが、私は学生時代、自分のことが大嫌いでした。

自己肯定感はゼロでした。
「なんで自分はこんなにダメなんだろう」と、毎日のように思っていました。


見放された私を、見捨てなかった方がいた

学校生活の中で、何もかもがうまくいかなくなったとき、
周囲の人たちは、私のそばから離れていきました。

そして――
「どうせ自分は何をやってもダメな人間だ」と思い、自分が自分自身を見捨てていました。

しかし、大学卒業後、仏教の教えに出会う中で、
私はあることを知りました。

周囲の人たちに見放され、
自分自身すらも見捨てていたあのときに、
たった一人、私のことを見捨てなかった存在がいたということに気づいたのです。

それが――
阿弥陀如来様という仏様でした。


「現実と仏様の矛盾」に救われた私

どれだけ自分が自分を嫌っていても、
阿弥陀如来さまだけは、ずっと私のそばにいてくださった――
そのことを仏教の教えに触れていく中で、気付かされました。

冷静に考えてみれば、明らかに矛盾しているような話です。

阿弥陀如来さまは、仏さまです。
そして仏さまは、私たちのことを、私たち自身以上によく知っておられます。

だとすれば――

私自身が「こんな自分は嫌いだ」と思い、
「こんな自分に価値はない」と見捨てているというのに、
私のことを私以上に知ってくださっている仏さまが、
そんな私を、見捨てずに愛してくださっているというのです。

明らかに、矛盾しています。

でも、仏教に触れていく中で、
私は次第に、この「矛盾」に自分を預けていくようになりました。

この、理屈では割り切れない矛盾の中に、そっと身を委ねてみたのです。

すると、不思議なことに、
私は少しずつ――
自分で自分を責めること、自分で自分を傷つけることを、やめていったのです。


最後にお伝えしたいこと

厳しい競争社会の中で生きている皆さまは、
日々、目に見えないプレッシャーと闘いながら、
一歩一歩、懸命に歩んでおられることと思います。

どうかこれからも、ご自身の目指す道に向かって進み続けてください。
より良い成果を得られるよう、心から応援しております。

しかし――
成果を追い求める日々の中で、どうかこれだけは忘れないでください。

たとえ挫折しても、
たとえ競争に敗れても、
どんな私であっても、
阿弥陀如来さまだけは、変わらず私のそばにいてくださる。

私を見捨てず、ありのままの私を、深く愛してくださっている方がいるということを。

このことを、心の片隅にでも置いていてくださったら、
私はとても嬉しく思います。

なぜなら――
この思いがなかったころの私は、
失敗したとき、
本当に、自分という存在ごと、崩れてしまいそうだったからです。

私たちの生きる現代社会は公正世界仮設という概念が浸透している厳しい世界です。

基本的に結果しか評価されません。

だからこそ、
「うまくいかなかった私」ごと、抱きしめてくださる仏さまがいるということを、
どうか知っていてほしいのです。

そうじゃないと、上昇志向の強い人ほど、どこかで本当に人生を破滅してしまう可能性があります。

そのままのあなたを、まるごと抱きしめ、あたたかく見守ってくださる仏さまがいる――

そのことを、どうか心の奥にそっと置いて、

明日からも、ご自身の歩みを続けていただけたら幸いです。

最後までお読み頂きありがとうございました。

今後ともよろしくお願いいたします。

合掌

善光寺 副住職

【行事のお知らせ】春季永代教のご案内

善光寺門信徒の皆様へ

お世話になっております。
善光寺副住職でございます。

春の訪れとともに、今年も春季永代経法要を開催いたします。

永代教という行事は、私たちのご先祖様、代々続いて伝えてきてた浄土真宗の教えを聴く法要です。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人を初め、蓮如聖人、七高僧の方々など、多くの方のおかげで、今の私たちが浄土真宗の教えに出会えました。

この代々伝わってきた浄土真宗の教えが、また未来へと繋がっていくように心込めて法要を執り行います。

詳細は以下の画像をご確認ください

4月14日(月)午前10時から善光寺本堂にて法要を執り行います。

今年も昨年と同じように、住職と私副住職でお勤めを行い、ご法話をさせて頂きます。

昨年の様子は以下の記事をご覧ください。

今年もお気持ちを込めて法要を執り行います。

ご都合の合う方は是非ご参拝いただけましたら幸いです。

皆様のご参拝を心よりお待ちしております。

善光寺 副住職

今年度の年忌表のご案内

法要を希望される方は是非参考にしてください

お世話になっております。

善光寺副住職でございます。

本日は今年度の年忌表につきましてご案内させて頂きます。

法要を希望される方は、故人様が年忌に当たるかどうかこちらの表を参考にご確認頂き、
ご連絡いただきますようお願い申し上げます。

ご不明な点がございましたら、お気軽にご連絡いただけましたら幸いです。

よろしくお願い致します。

善光寺 副住職

年末のご挨拶並びに令和7年度の年忌表のご案内並びに修正会(しゅしょうえ)のご案内

善光寺門信徒の皆様

お世話になっております。

善光寺副住職でございます😊

早いもので今年もあとわずかとなりました。

この1年、善光寺の活動にご理解とご支援を賜り、心より感謝申し上げます。

本日は令和7年度の年忌表のご案内させていただきます。 

年忌法要のお勤めを希望される方は、こちらの年忌表をご覧いただき、ご連絡いただければ幸いです。

※現在、個別での年忌法要のご案内は差し控えさせていただいております。
大変恐縮ではございますが、年忌法要をご希望の方は上記の年忌表を確認頂き、ご連絡頂きますようお願いいたします🙇

また来月一月一日は善光寺にて10時から修正会(しゅしょうえ)を執り行います。

ご都合の合う方は是非お参り頂けましたら幸いです。

何かご不明な点がございましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。

年の瀬を迎え、寒さも一段と厳しくなってまいりました。

皆様におかれましては、くれぐれもご自愛いただき、清々しい新年をお迎えいたしますよう、心よりお祈り申し上げます。

来年も変わらぬご支援とご協力を賜りますようお願い申し上げます

善光寺 副住職

報恩講にお参り頂きました皆様へ

皆様、大変お世話になっております。
善光寺副住職でございます😊

先日 11月14日(木)に善光寺にて報恩講のお勤めをさせて頂きました。

※報恩講のご案内の記事は以下よりご覧ください


いつもご協力して頂いている皆様のおかげで無事に今年も報恩講を執り行う事ができました。

ご参列いただきました皆様におかれましては心よりお礼申し上げます。

今年も多くの方にご参拝いただき、ありがたいご縁となりました。

今年は、三重県より山田智敬先生にご法話をいただきました。
(毎年ご法話頂いている山田 敎尚先生のご子息様です)

先生は今回、初めて善光寺にお越し頂きました。

先生のやさしく、そして温かな語り口でもって、阿弥陀さまのお話をお聞かせいただきました。

ご法話のテーマは

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」

正信偈の冒頭であり、そして「正信偈」全体を表すと言っても過言ではないこの二句についてありがたく、そして大変わかりやすくお話を頂きました。

※完全に余談ですが、山田先生は私副住職と同世代の方です。
同世代の布教師の方から直接ご法話を賜り、大変刺激になりました。
私も先生のように、皆様へありがたい法話ができるように、これからも日々精進して参ります。

本当に有り難い時間でした。

1年で最も大切な法要が皆さまのおかげで、このような形でお勤めできました。

改めまして、皆さまありがとうございました。

今後とも皆様、善光寺をよろしくお願いいたします🙇

善光寺 副住職

善光寺へお問い合わせを考えている方へ〜連絡方法についてのお願いです〜

より皆様へ丁寧なご対応をさせて頂くためのご連絡です

皆様、大変お世話になっております。
善光寺副住職でございます😊
いつも善光寺のホームページをご覧いただきまして、誠にありがとうございます🙇

ホームページを開設し、半年以上が経過しました。
あまり更新頻度は高くありませんが多くの方々にご覧頂いているようで大変嬉しいです。
心よりお礼申し上げます。

ありがたいことに、ホームページを経由して多くの方からお問い合わせを頂いております。

現在お寺への連絡方法として、電話・メール・LINEがございます。


皆様のご都合の良い連絡方法でお問い合わせいただければと思いますが、
日中は法務でお寺にいない事が多いため、お電話でのお問い合わせを希望の方はお寺の固定電話ではなく、副住職の携帯(090-9891-9541)にお電話頂けましたら幸いです。
お電話に出れなかった場合は、なるべく早く折り返しご連絡させて頂きます。


また、急ぎのご相談ではない方は善光寺公式LINEメールアドレス宛にご連絡いただけますと、より確実に丁寧を回答させて頂けます。

公式LINEはホームページ最下部のLINEのアイコンのボタンから、メールアドレスはホームページ最下部に載っているアドレス(zenkoji.nagoya@gmail.com)からご連絡いただけます。

前述した通り、日中は法務に出ているためお電話に出れない事が多いため、公式LINEやメールアドレスでご連絡頂けますと幸いです。


ちょっとした仏事の相談事でもお気軽にご連絡ください。

皆様のお問い合わせをお待ちしております😊

善光寺 副住職